2015/01/03

ホームページのタイトル「みんなのための幸福の科学」を「希望の科学」に変更した。 客観的に見てこれほど不幸な人はいないと思えるほどの私が「みんなのための幸福の科学」というページを書いても、特に私を知っている人に対しては説得力に欠ける。 私の年代の人(男性)が客観的に見て幸福な人とは、概ね次の通りである。

・高収入である。
・失業する心配のない優秀な正社員である。
・結婚していて家族と一緒に住んでいる。
・子供がいる。
・持家がある。

私は悲しいぐらいにあてはまらない。 あと一歩で生活保護というところで、以前派遣していた会社から中国出張という誰も行きたがらない仕事が入って中国に行った。

私の能力を知らずに雇って今も後悔していることは間違いないのは非常につらいところである。 能力主義社会では、能力のある人が善人であり、無力な人は悪人である。 会社の希望=会社の繁栄であるので、繁栄に貢献できる人は善人ということである。 ソニーなど多くの企業が能力主義に移行していて悪人の私としては憂鬱な日々が当分続きそうである。 自分達の文化の中で全力で仕事をした挙句に感謝の言葉一つなくバカ呼ばわりされる。 文化が違うと、日本で深く反省していたことが、「自分は正しい道を歩んできた。」と考えたりするようにもなった。 なんでもかんでも悪いのは自分で相手のせいにしないという考え方が、相手のせいだと考えるようになると精神的に非常に楽になる。どんなに悪い結果にも相手にも悪い理由がある。

私を中国に行かせてくれた会社には非常に感謝している。 大企業の精鋭に毎日接することができたことは良かった。 意識調査の結果に出ている管理者層の仕事の生きがいとはどういうものかわかったような気がする。 日本人の管理者層と言っても中国で出会った日本人は誰もがそれぞれの中国人的要素を持っていた。 それだけ中国人の幅が広いということだが、 自分の正義感を元に「中国人のこういうところが良い(良くない)。」と考える内容は人それぞれだった。 営業マンにキリスト教の信者がいた。聖書をすべて守ることは不可能で独自の逸脱ルールを持っていた。宗教の教えとは相反する内容も多かった。 会社の繁栄のために重要な人を再優先しつつも上から下(私)まで気を配った仕事をしておられた。 私が考えていることを理解されていなかったが、追究すると、私が本心を隠すくせがあることが原因だった。 私を被害妄想という解釈がなされたこともあったが、これは勘違いである。 たとえば、CMを毎日見ているうちにペヤングの焼きそば「超大盛」を買って食べようと思った矢先に虫混入事件で販売中止になるとか、青梅線の御嶽駅の御岳山へ行くつもりでいると、長野と岐阜の県堺の御嶽山が噴火したとか、上海タワーを望む外滩周辺の動画をYouTubeにアップしようと考えて準備したが死をイメージする情報があってアップをやめた後に外滩で死傷者が出る事故が起きたりする。明言すると起きないなどの過去の情報から発する発言が誤解を与えていることが多い。最近は明言して起きて欲しくないことが起きることがあるようになっている。 上の人たちは社員の品定めをすることが仕事でリーダー同志で誰が悪い誰が良いなどと日常的に話し合っているが、日本人同志の、いない人に対する非難の応酬が気になった。「あの人は本当は決断力があって優秀な人だからね。」と何度も言われると、そんなに非難しなくてもという意識になる。金を工面するのが仕事のリーダーは、酒の席などでもてなした人、信頼している人に裏切られていて可哀相だった。指導者層の人たちは「自分は正しくて誰よりも崇高な仕事をしていて会社に貢献している。」という自信が生きがいのようだ。「下っ端は奴隷だ。」という言葉も聞いたが、「上をめざして頑張れ。」という思いで言ったものと思われる。「そんな事は中国人にやらせれば良いのだよ。」と言う人もいた。管理者層が増えすぎるのは良くないと思う。

というわけで、結局は深層では上の人たちを批判していて今誰のおかげで自分がいるかということを忘れて感謝の気持ちが足りずに心が離れていることが私の無力につながっているものと思う。わかっていても改善できないのはこれも実力のうちだと思う。それにしても私には仕事がキツ過ぎる。この厳しさが自然現象にも現れているようだ。日本人は働くことが美徳とされていて甘いといわれると思うが社員がもっと楽になれないと社員になろうとは思わないし繁栄している会社(国)という感じも受けない。今日は夢のない話で終わってしまった。

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